〈第四回山遊会〉
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ここ八島が原湿原には下諏訪郵便局の出店があったので、田舎の兄貴にいつもの無沙汰を詫びて あざみ咲く山の小径よ物見岩篠突く雨に独り耐へ居て と一首認めた。このような所に出店を開き、郵便番号も調べて書き入れてくれるサ−ビスを始めた元官庁の変わり様に感心した。帰宅後推敲して 物見石に向かふ路辺にあざみ咲き篠突く雨にも独り耐へ居る
と改めることにした。便りを書いてから集合場所に戻る途中で、子供の頃にラジオで聞いたあの「あざみの歌」の歌碑を見つけ、ここで作られたことを知った。山には山のと云う山がこんなに高い山だったのか。八島が原から車山に向かう途中で激しい雷雨があり、ヒュッテ御射山(みさやま)で15分ばかり雨宿りをして雷雨の止むのを待った。(御射山には収容人数2〜3万人と推定される日本で最大最古の円形桟敷式野外競技場があった。鎌倉の時代、諏訪、甲斐の武士はもとより遠く鎌倉幕府の重臣達も集まり、御射山の仮社殿に祭られた軍神、諏訪大明神の祭礼がここで行われたとのこと。)途中霧ヶ峰頂上付近では、将にその名の通りの霧ヶ峰で、見渡す限り霧の中であった。車山肩のコロボックルヒュッテを過ぎてから、2班に分かれ健脚班は車山山頂を目指し、自分は車山巻道班に入って平坦な道を歩いた。 諏訪のかんぽの宿に着いたのは17:00を少し回った頃であった。最後の部分で健脚班に入るほどの元気は残っていなかったが、なんとか歩き通せたことを喜び、励まして頂いた皆さんに感謝して風呂に浸かった。風呂から見る諏訪湖も夕焼けに映えてとは行かず、視界不良、見晴らし不良の一日の総決算ではあったが、十分に充実感に浸ることが出来た。楽しい夕餉の後、明日の予定は計画になかった北横岳に登ることに決まった。 |
二日目:11日(日)8:00に宿を発ち、諏訪神社上社へ参拝しその歴史の古きを知る。鳥居の下を掃き清めていた神主さんは博学なのであろうか、我々の質問に答えてその歴史を語ってくれ、その神主さんに、若き日の奈良薬師寺の故高田好胤管長が重なった。将来きっと立派な方になられるに違いない・・・と。 昨日通った道を再び通って、白樺湖を見やり、ピラタス蓼科ロ−プウェ−に乗るべく、蓼科高原に向かった。今日もお天気は昨日ほどではないが、「芳しからず」と言ったところだ。ロ−プウェ−から見える筈の八ヶ岳の連峰も殆ど見えず、「もう一度来たい」の感を強くさせられた。ロ−プウェ−の山頂駅は標高2,237mですこし肌寒い。それもその筈、気温は9度だと云う。頂上には日本人的発想から名付けられたのであろうか、一周1000mもある広い自然園が「坪庭」と名付けられていた。大きな身体の「小錦」を想像してしまった。
台地を這うように低木が広がり、ハクサンシャクナゲとかゴゼンタチバナとかの高山植物が咲いていた。このような舗装などされていない遊歩道の山の庭園に、ハイヒ−ルのご婦人なども現れるものだから、びっくりしてしまうが、その辺の町中の公園を散歩するが如き感覚らしい。ここから2時間ばかり歩いて北横岳頂上を目指した。今日は昨日の雨ほどではなかったものの、視界不良で東西南北何も見えず、最初北横岳の頂上と思った所はさにあらず南峰で、更に5分程歩いた所に頂上の北峰があった。頂上駅14:00発のロ−プウェ−で下山したが、このときは幾分晴れて遠望とまでは行かないまでも、八ヶ岳連峰や南アルプスの山々が雲の切れ間から頭を覗かせた。2日間で一番遠くが見えた瞬間でもあった。
今回の参加者は下記のとおりだが、最高齢の中原さんの健脚は素晴らしかった。若い頃から鍛えた身体は違うものだと感心することしきりで、大方10歳も若いのに後に続くのがフウフウとなり、これからも鍛錬に努力していかねばならぬと思ったことであった。 【参加者】 中原(28電)、山崎(31原)、田崎(32電)、小宅(36電)、白井(36電)、前田(37機)、桜井(38機)、三好(39機)、兼子(38電) |